みなさん、よかったら、絵本の紹介のページへ遊びに来てください。というのは、このところ、順を追って、レオ・レオーニの作品を紹介しているからです。「あおくんときいろちゃん」にはじまって「スイミー」「フレデリック」。そして、今回の「Tico」で、レオーニを終わりにしようと思います。実は、「Tico」は、まだ日本で翻訳されていないと思うので、是非この機会にご紹介します。
わたしが、三年前にウイーンに行ったとき、友人がこの絵本を本屋さんで見つけ、はじめてわたしもこの作品に触れました。

過去の作品でも、表現手法も切り絵や水彩など、多様でしたが、今回の色彩は、とてもシックです。色彩は、色を組み合わせれば、組み合わせるほど難しいのです。色が濁ってしまうからです。色彩豊かで鮮明に、あるいはスイミーに出てくるくらげのような透明感がでてくると素敵ですが、下手な人だと、色がごちゃまぜになって、全体が不調和かにごってしまいがち。でも、シックというのは、深い落ち着きを感じさせる色であり、鈍い色彩、良い具合ににごっている、という感覚だとわたしは思うのです。
さて、お話ですが、一羽だけ羽のない鳥が、羽を欲しがっています。名前は、Tico。すると、彼の願いは聞き届けられ、金の羽が生えてきます。ところが、仲間はこれを喜ばないのです。ここでも、Ticoは、みんなと違って何故いけないの?と嘆きます。Ticoは、病気のこどもの薬を買えないで困っているお父さんに出会い、すっかり同情して、自分の金の羽を抜き取ってあげます。すると、抜き取った部分から不思議と黒の羽が生えてきました。
貧しいやもめにも、金の羽を抜いてあげました。Ticoは、金の羽という富を自分の満足だけでおわらせず、泣いている人たちと分かち合うことに用いたのです。やがて、Ticoの羽は黒く代わっていきます。すっかり普通の平凡な姿になったTicoを見て、仲間の鳥たちは、やっとTicoを自分たちのグループに受け入れ、Ticoも幸せになるのです。でも、作品の最後には、こうつけ加えられています。「みんなが違っていていいし、みんながそれぞれ見えない金の羽を持ち、それぞれの物語をもっています。」と。
レオ・レオーニは、「自分って誰?」というテーマで一貫して作品を生み出してきました。それは、彼がいつも自分自身を、人とどこか違っている、と感じて生きてきたからでしょう。第二次世界大戦のときは、ユダヤ系であった彼は、イタリアでファシズムと戦い、アメリカに亡命しました。虐殺を逃れた小魚スイミーの姿は、同胞を失って、暗い海底をさまよった作家自身の姿ともいえます。ところが、スイミーでの最後の場面は、政治的英雄になった、とかリーダーになった、とか残念ながら間違えられがちです。そうでなく、スイミーの孤独と深い思索の中から蓄積されたのは、真実を見抜く先駆者としての目、知恵者としての力です。それが、「スイミー」で込められているのです。そして、この「Tico」では、誤解なく、黒い羽の普通の鳥になった主人公を、リーダーとして描くのでもなく、内に秘めた知恵者として静かに表現しています。わたしは、Ticoに出会って、さらにスイミーのことがわかってきたような気がします。
見えない金の羽を持った人や、豊かな物語を仕舞っている人は、私たちのまわりにいるでしょう。単調な生活の中ですが、それぞれが、素敵なTico達に出会えって、勇気をもらえたらと願います。

絵本の紹介では、レオ・レオーニーが続いています。今回は フレデリック
詩人のねずみの話です。
他のねずみの友達は、冬に備えて、食料を蓄えて働いています。でも、フレデリックだけは、じっと瞑想に耽るばかり。
「どうして、きみは働かないの?」
と少々、いらいらして聞いてくる友人たち。でも、フレデリックは、「こう見えても働いているよ。」って。ある日は、お日様の光を集めるフレデリック。ある日は、色を集めるフレデリック。又、ある日は、言葉を集めるフレデリック。そして
とうとう、本番の冬がやってきて食料も底をついてくると、みんなの心までが寒々してきます。そこで、フレデリックの出番となるのです。「目をつむってごらん。お日様をあげよう。」友人たちは、いわれるままにすると、金色の光を感じていきます。あれ?これは魔法だろうか?お次は、色彩。冬は灰色なのに、みんなの心にはフレデリックの集めた太陽の下で輝く鮮やかな色彩が思い起こされていくのです。いよいよ、最後は、フレデリックの集めた言葉による、詩が披露されました。ひもじく、貧しい冬の生活の中でも精神の豊かさが保障されていくのです。友人たちは、フレデリックの詩人である働きに拍手喝采!見えないものを感じ取れる感性の豊かさは、その人の人生を何倍にも豊かにしていくんですね。そして、単調なブルーにもなる日常生活のなかに、些細な喜びを見出せる人は幸せな人でもあります。
余談ですが、みなさんご存知ですか?アウシュビッツの強制収容所で生き延びた人の証言によると、夕焼けの美しさを美しいと感じて、ふと現実の過酷さを離れることのできる精神の持ち主だったり、監視の兵隊が演奏しているバイオリンの音色が、夕暮れの風に乗って聴こえてきた時、聴き入って、疲れきった自分の魂を慰めることのできた人が、同じ条件の中でも生き残っていかれたということ。なによりも、自分には愛する家族が待っている!と希望を失わなかった人が、一日一日を生き延びたことを。(ー夜と霧ーフランクル著 みすず書房 より)
それにしても、このねずみの友人たちも、たいしたものだと思いませんか?フレデリックに誘導されながら、ちゃんと太陽の暖かさを感じ取れたし、色彩を心の目でみることができたのですから。働きながらも、日々の景色を身体でうけとめていたんですね。
こども時代をこどもらしく遊びこんで、ちゃんと生きていることは大切です。早くから、こどもを大人の合理性の生活に押し込めることはありません。いくつになっても、こどもであり、詩人である自分をのこしておきたいものです。感性の豊かさや想像力という、遊びのある自分が、行き詰った自分を助けたり、周囲の人を笑わせ、励ましたりするものです。スイミーに並んで、この作品も、レオ・レオニーらしいと思いませんか?

絵本の紹介 のコーナーでは、このところ、レオ・レオーニーを続けています。この「スイミー」は、みなさんが一番よくご存知かもしれません。レオ・レオーニーの初期に描かれた傑作です。作者の生きた時代は、第二次世界大戦の前後。イタリアでファシズムと戦かったレオ・レオーニーは、家族を連れてアメリカに亡命します。アメリカでも画家として認められ、ニューヨーク近代美術館で個展を開くまでになりますが、1950年から54年にかけての赤狩りで活動できない辛い時期もありました。やがて、デザイン界でも名誉を受け1955年に「あおくんときいろちゃん」を出版します。それから、彼は、絵本作家として世界に知られるようになっていきます。「スイミー」を出版したのは1967年。その後、「フレデリック」というねずみの絵本も発表しました。
さて、「スイミー」ですが、過酷な時代が描かれています。大きなマグロが小さな魚たちを飲み込み、スイミーだけが生き残るのです。まるで、第二次世界大戦の悲劇をあらわしているようです。そして、わたしたちの世界というのは、いつでも強い権力や勢力に押される弱者が悲鳴をあげています。その中でいきのこったのが、スイミーなのです。スイミーには、使命があります。生き残ったものに与えられている大きな仕事があります。でも、それを自覚するまでには、スイミーはたくさんの旅をしなければなりません。「スイミーは、およいだ くらい うみの そこを。こわかった、さびしかった、とても かなしかった」自分を癒すための旅。自分自身に出会い、本当の自分らしさを発見する旅を泳ぐのです。そのうちスイミーは、美しかったり、面白かったりするものにたくさん出会い元気を取り戻します。この絵本の肝心な場面は、実はこの旅の部分です。水彩の透明度の高い流れるような絵の具の美しさをごらんください。にじいろの ゼリーのような くらげ。スイミーは、弱くちっぽけなだけでなくなり、本物を見分ける(本質)先駆者という目をやしなっていくのです。弱くされたものが、本当の事柄を感じ取れるのです。
やがて、自分と同じ小魚が岩の陰にかくれているのに出会います。残念ですが、彼らは、大きな魚がこわくて、世の中に出てこられないのです。わたしたちの日常にも良くある光景ですよね。でも、スイミーは、仲間たちを外の広い世界へと誘い、めげません。昔の逃げ惑っていただけのスイミーではなくなっているのです。スイミーは、共に、本当の平和を築くために、弱い者たちも生き延びていくにはどうしたらいいのかを思索してきたのでしょう。知恵を身につけたスイミーは、赤い小魚の大群の中にまじって、自分は目となり、みんなで大きな魚の格好をして泳ぎ、大きな魚を追い出すことに成功して、話はおわります。本当のことを見極める 目 というのは、コミュニテイにとって重要なことです。こどもたちは、美しいものや、本当の思いやり、愛に抱きしめられて、知恵者と育っていくことでしょう。それには、弱者の視点からモノをみる姿勢が大切です。そこには本当のやさしさの感性が寄り添っているからです。でも、絵本には、ちっともそんな理屈は描いてありません。作品から、ほんのりとそれが感じられれば充分ですし、そのはず、世界中のこどもたちが、「スイミー」をうけいれてきたのですから。

じぶんは、さかな なのに、蛙のまねをした さかな のはなし です。たしかに、オタマジャクシは、こざかな と一緒に水草の間を泳いで仲良しだったのだから、自分のことを、魚だと思い込むでしょう。そう、はじめのうちはよかったのです。
ところが、時がたつうちに、オタマジャクシの足が生え、蛙になっていくのです。
「みろよ、ぼく かえるに なった!」と自慢する蛙の横で、「ばかな。・・・ゆうべは ぼくみないな こざかなだったのに もう かえるだなんて!」と反応して、ショックをかくせない、魚。二匹は、さんざん言い合った挙句、オタマジャクシの最後の一言。「かえるはかえる、さかなは さかな そういうことさ!」
そして、何週間かたつと、オタマジャクシには、小さな前足が生え、尻尾が小さくなって、本当のかえるになっていきます。つまり、かえるは、水からあがって岸に這い上がっていく日が来たのです。
さて、残された魚は、友達のことばかり考えています。そのうち、広い世の中を見てきた蛙が、水の中に飛び込んできて、今まで見たこともなかった陸地での生き物のことを話して聞かせます。魚は、自分も、見たことのない世の中に出たくてたまらず、尻尾の一振りで陸地にあがってしまいます。ところが、たいへん!魚の息はあえぎ、彼は、呻きます。そこを、友達の蛙が発見。無事、魚を水中に戻してやりました。
死に物狂いの冒険を犯した魚は、水に入ったとたんに息を吹き返し、自由自在に動ける、本当の自分の居場所を再確認するのです。魚の帰るべき居場所は、水の中であり、その世界の美しいことを、心から知ったのです。そして、魚は、友達の蛙に微笑みかけて、「君のいったとおりだよ。さかなはさかなさ。」と柔和に認める、というおはなし です。
作者のレオ・レオーニーは、絵本のテーマに、自分さがし、自分っていったい何者?ということを問い続けています。わたしたち、みんな、こうやって、自分をたしかめながら生きていますよね。


あおくんときいろちゃん(レオ・レオーニ/ 至光社)
新学期がはじまりました。幼稚園や小学校に上がったお友達が、 「ただいまー。」と帰って来る家があることは、本当に嬉しいことです。
自分が、どこの家の子なのか、ちゃんとわかっていることは、その人の心の土台になるからです。そこに、自分を待っているお父さんなり、お母さんなり、自分を愛し世話してくれる人がいたら充分です。レオ・レオーニは、いくつもの絵本の中で、繰り返しくりかえし、自分探しを描いています。自分って誰?どこのこども?って。
わたしは、うちの育っていったこども達と「あおくんときいろちゃん」を何度も読みました。どこか好きだったんですね。わたしは、このシンプルな本が。「あおくんときいろちゃん」 は、絵の具のあお と きいろのまるの絵で、物語を進めます。この作家は、水彩画の美しさを効果的に、この物語のテーマに沿って表現しています。仲良しの二人は、一緒に交わるとみどり色になることを知り、ますます嬉しくなります。ふたりは、夢中であそんで、みどりに変身したまま、お互いの家にいくのですが、あおちゃんの家でもきいろちゃんの家でも、両親から「うちの子じゃないよ。」と言われてしまうのです。
ショックを受けた二人は、泣いて泣いて、みどり色の身体から、あおときいろの細かい涙をこぼすのです。それで、あおくんときいろちゃんは、又自分の色に戻って、家の両親に迎えられました。実は、二人が交わると黄色になるんだよ、とこどもたちは、お互いにお父さんとお母さんにすばらしいことを教えることができました。不思議な色遊びですね。こうやって、新しい発見をしていくこども達の背後に、しっかりと、帰るべきホームが描かれています。「ただいまー。」と帰ることのできる自分の家に、愛し合う家族が待っているんですよ。こどもにとって、最高の幸せでないですか?
、どんな家族の形であっても、こどもを愛し、こどもが安心して帰れるホームを用意してあげたいですね。こどもばかりでなく、みんなにとって、ホームは拠り所です。次回の絵本の紹介も レオ・レオーニ です。お楽しみに。
教会や幼稚園の礼拝の後は、みんなで卵探しをしてお祝いしました。
イースターとは、イエス様が、十字架にかけられた後に3日後によみがえったことを、希望の徴として喜ぶ日です。
それで、「リーベとおばあちゃん」(福音館書店)は、そのイースターの朝の出来事を描いています。
おばあちゃんは、病気でした。スエーデンの冬は長く、半年お日様を見られないのです。
特に病気のものにとって、お日様の光がないのは、精神的にも、辛い毎日でしょう。
リーベは、おばあちゃんのために、お日様をとってきてあげようと、決心して、おとうさんとイースターの早朝、ムラサキ山の向こうまで、スキーを車に載せて出かけます。
リーベがお日様の光の代わりにおばあちゃあんにとどけたものは、ふきたんぽぽ でした。冬山の雪の大地の下には、確実に新芽が息づいているのです。福寿草のような、ふきたんぽぽ。春一番を知らせる、金色の花々が、山の斜面一面に咲いている場所に、リーベは足を踏み込んだのです。これは、お日様のこどもだ!とリーベは感じたのです。リーベが、おばあちゃんに、ふきたんぽぽの花束を抱えて、イースターのお祝いをします。静かな愛情豊かなイースターの朝が描かれています。絵も、素敵です。

今日の、ゆり組みさんの学校ごっこは、図工だったようです。蜜蝋のクレヨンで絵を描いて、大変楽しい時間でした。こどもたちは、毎朝おきると、学校ごっこだ!と、張り切って、遅刻しないように親を急き立てているようです。さて、絵本「くんちゃんの はじめてのがっこう」(ドロシー・マリノ作 ペンギン社)をご紹介しましょう。すでに、絵本紹介のコンテンツで探していただければ、くんちゃんシリーズ の絵本を載せています。
学校にあがったくんちゃんは、もうドキドキ。田舎の学校なので、上のこども達と複式学級のようです。読み・書き・算のできないくんちゃんは、教室の椅子の中に、身を縮じこませていきます。新入生が、教室の一番前の席に座るように先生から、言われたときには、くんちゃんの緊張は高まり、空いているドアから、教室を逃げ出してしまうのです。ところが、ベテランの先生は、ちっとも慌てず、くんちゃんが窓から教室を伺っていることを、ちゃんと知っているのです。先生は、一年生のハリエットに向かって、「は ではじまる言葉をしっていますか?」と質問します。おともだちは、自信なさそうに「はな」。と答えます。くんちゃんは、心の中で、「ぼくもしってる!はちみつ。」といいます。先生は、お次はスージーにむかって、す で始まる言葉を訊きます。スージーが、「すみれ」と答えると、くんちゃんも心の中で、「ぼくも、しってる。スープ。」と言います。次は、くんちゃんの く ではじまる言葉。この時には、くんちゃんの縮じこまっていたからだが、外窓から伸びやかに出ています。(はじめは、目だけしか出ていなかったのですよ)ぼくの名までだ!と分かったくんちゃんは、窓の外から「くま、くるみ、くまんばち!」とさけびます。そこで、せんせいは、にっこりして、はいっていらっしゃい、あなたの座る場所は、ここですよ。と教室にくんちゃんを招き入れます。それから、くんちゃんにとっても楽しい勉強がはじまります。自分の名前と同じ音で始まるものの絵をかくのです。家に、勉強の成果をもって帰ったくんちゃんの絵を見た両親は喜びます。くんちゃんは、すっかり先生が大好きになって、翌朝はたくさんの庭のひまわりを摘むと、先生にあげることにしました。よかった。学校は、ちっともドキドキする場所ではなかったね。クンちゃん!


教会こども会の5.6年生 9人になぞなぞを出しました。といっても、実は幼いこども向けの読み聞かせなんです。幼児向けの読み聞かせにしては、ちょっと役不足でしょうし、こちらの手持ちが短い時間に限られていたので、小さなお話を なぞなぞ にして読んでやりました。1979年発行の古い本ですから、ご存知でしょうか?「あとでまたものがたり」(岩波ようねんぶんこ/ドナルド・ビセット作 木島始訳)訳者もなつかしい名前です。古典になっているお話というのは、とても安心して読めます。時代は変わってこどもの取り巻く環境も変化がありますが、こどもがこどもらしく、成長していく発達の過程は、ちっとも変わらないのです。それで、こどもが驚いたり、笑ったりする場面がいつの時代のこどもも同じであるなら言う事なしです。果たしてどうかな? 題名は、「きーきーきー」むかし、むかし、ロンドンのフェステバルホールで踊り子さんがダンスをしていました。が、いつも、同じ床のところを踏む度に、床がきーきーきー、と鳴るのです。踊り子は、せっかくのダンスが台無しになると、支配人に文句をつけます。しかし、あくる日、支配人がしっかり床に釘を打ち付けてたはずなのに同じ床がまた、きーきーきー、と鳴ったのです。踊り子は、怒って、「その板、とりはらって、きーきーいわない板をいれなさいよ。」と言いました。そこで、支配人と大工は、板をはがしてみると、なんと!、板の下の、ちょっと空いた隙間に・・・・・みなさん、何があったと思いますか?さて、この なぞなぞ に答えるこども達。鴬張り、ねずみの巣などの自信のなさそうな 答えが返ってきました。では、お話をいそぎましょう。そこに、あったのは?
なんと、ちっちゃな ぬいぐるみのクマちゃん だったのです。みなさん、見えますか?9人の高学年の小学生達も、一斉に、頭を乗り出して、板の下に居た正体を覗きましたよ。踊り子は、「あら、なんて、かわいいクマちゃんでしょう!」と思わず拾い上げて抱きしめると、クマちゃんが」、きーきーきーって言ったのです。ああ、やっとわかりました。それで、踊り子の方も、安心してぬいぐるみを自分の家に持って帰り、ぐっすり眠っていた男の子のベッドに押し込んでやったのですって。もちろん、朝、目を覚ました男の子は、クマちゃんを抱きしめました。すると、やっぱり、きーきーきー、といった、ということです。 おしまい

わたしが、「ラチとライオン」(マレーク・ベロニカ文/福音館書店)の絵本に出会って、共感して読んでいたのは、息子が3歳のとき。彼は、とても弱虫になってしまい、幼稚園に行きたがらなくなった頃でした。幼稚園には、乱暴な男の子がいたりして、彼は、きっと臆病になっていたのでしょう。すっかり、自信をなくしている小さな息子に、主人公のラチを重ねて読みました。絵本の中のラチは、せかいじゅうで いちばん よわむし でした。犬もこわければ、暗闇もこわい。おまけに、ともだちさへ怖いとなれば、みんながラチをバカにして遊んでくれません。ラチは、こもって泣いてばかりで過ごします。ところが、ある朝、赤いライオンがラチのベッドの傍にいたのです。ライオンは、ラチを強いこどもにするために、やってきたのです。そして、二人で毎朝、体操を続けて、ラチはライオンのように強くなっていきました。ラチは、弱虫になりそうな時に、ライオンが一緒にいてくれることを思い出して、勇気をだして、犬の傍を通り抜け、暗闇の部屋からクレヨンを取りに行くこともできるようになりました。そして、ラチが本当に強い子に生まれ変わったことを証明する日がくるのです。自信を回復してきたラチが珍しく、友達のところへ出かけると、みんなが泣いているところに出くわします。乱暴者ののっぽくんに、ボールを取られたというのです。ラチは、「こわくないぞ。ぼくには、ライオンがついているんだから!」と自分に言い聞かせてのっぽを追いかけます。のっぽは自分をこわがらないこどもがでてきたので、びっくりして逃げますが、ラチは、のっぽを 追い詰めてボールを取り返してしまいます。ラチは、ライオンにお礼を言おうとおもって、ズボンの後ろポケットにをやると、なんと!ライオンがいないではありませんか!ライオンがついていなくても、ラチはすっかり強くなっていたのです。ライオンの置手紙には、もう、ぼくがいなくても だいじょうぶ。と書かれていました。ライオンは、また 弱虫のこどものところへ行って強いこどもにしてやるために、でかけてしまったのです。ファンタジーの世界では、役割を終えた人物は、去っていくという鉄則みたいのがあります。ライオンも、まさにそう。ラチとライオンは、ぴったりくっついていたのですが、用がなくなれば、消えていくのです。いつまでも依存関係にない、というのが、センチメンタルでなくていいですね。ライオンの手紙の最後は、「ぼくを いつまでも わすれないでくれたまえ。 ぼくも、きみのことはわすれないよ。じゃ、さよなら。」です。なんとさわやかで、ラチの心の中に、ライオンが目に見えなくても違った形で住み続けているのが感じられます。この絵本の後ろ扉に、当時のわたしの書き込みも残っています。「いくら、外から自信をつけさせようとしてもダメ。自分の中から出てくるもの。 時が熟さないと。」
そうか、ラチとライオンの物語は、ラチの心の中の過程を描いているんですね。外からは、ラチの心の変化は容易に見えなものです。でも、時が熟すまでに、人の心の中には、こういったプロセスが動いているんです。それを信頼して、じっくり待ってあげることを語っているのが、「ラチとライオン」です。外から雑音のようにつべこべせっつくと、(つい、言ってしまいがち)そちらへの対応でこどもはすっかり疲れ果てて、プラスのエネルギーを使えなくなってしまうんですよね。もうそろそろ大丈夫、というところで、背中を押してやるタイミングは、さすが、ラチとライオン☆
ところで、今、ずくぼんじょ工房 で作っているライオンは、お母さん達が、たくさんの弱虫のこどもたちへ、プレゼントするために、せっせと作っているのでした。合わせて、「ここは、工房?」の記事を見てください。






本文の「金の羽を抜いて人々を助ける」くだりを読んだとき「幸せの王子」のツバメが金の王子の体から宝石や金を剥いで病気の人や貧しい人々の暮らしを助ける場面を思い出しました。自分の持っている幸せ、豊かさを分け与えることの凄さを感じました。