アンデルセン


2009050200052918990.jpg「マッチ売りの少女」なら、誰でも知っているでしょう。「赤い靴」もいかがでしょうか?
どちらも、究極の苦しみの中で、主人公は、神様に祈っています。

加治屋町教会の今週の希望のダイヤル(225−4807)を回すと、このアンデルセンの童話との出会いが語られています。彼女は、孫の世話をする年代。自分が幼かったころ、内気で学校にも馴染めなかったので、物のなかった貧しい時代でありましたが、親が見かねて世界童話全集を買ってくれたそうです。彼女は、むさぼるように読み、アンデルセンの中にでてくる祈りに出会うのです。大人になって、雑事に追われましたが、ようやく教会に通えるようになりました。子ども時代に心の中で祈った神様にたどり着いたということです。
祈りは、こどもにとって、不可欠です。祈りとは、安心感です。こどもにとって、両親が全ての時代。親の精神の安定が、子どもに世界は今大丈夫だ、という安心を持たせます。本来なら親や信頼出来る大人(幼稚園の先生)を通して子どもは                                 祈りを覚え安心を得ていきます。
            
2009050200042518062.png自分の根っこを支える世界が、安心感に満たされていることを感じているこどもは、幸せです。お金がある、とか、能力がある、ということが幸せの基準ではないのです。
マッチ売りの少女は、最後に擦ったマッチの中に愛するおばあちゃんを見出し、最後は、究極の親である神様に身をゆだねました。

福音館書店の「アンデルセンの童話、愛蔵版」(全4巻)は、大塚勇三訳で、イブ・スパング・オルセンの挿絵がすばらしいです。わたしも、今晩は、久しぶりにアンデルセンをめくってみました。

太刀打ちできない事柄に遭遇するとき、わたしたちに祈りが残されています。毎日の保育の中で、こどもたちの組む祈りの手から、幸せの原点を教えてもらいます。

 
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3月の誕生会

resultCIMG2258.png朝から、3月のお誕生日会を待って、冠を載せて遊んでいるKちゃん。そうか!!今日は、誕生会。3月生まれのお友達、おめでとう。













resultCIMG2264_1.png今年度最後の、先生からのだしものは?

みんなが、釘付けになっているのはなんだろう?














resultCIMG2266_1.pngそーれ!まゆみ先生の手品でした。こどもたちは、いろんな場面でみているけれど、招待された誕生月のお母さん達も、驚きの声をあげ、拍手喝采。

楽しい敬愛の誕生会。これで、どの子も、ひとつ大きくなりましたね。こどもたちに祝福と喜びがいっぱいありますように、保護者も先生たちも、いつも願っています!














 
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ロッタちゃんとじてんしゃ

resultCIMG2143.png 「ロッタちゃんとじてんしゃ」リンドグレーン作/は、自分の一人前の自転車がほしくてしかたない、ちいさな女の子のはなし。まだ、小さいロッタには、ヨナス兄ちゃんやマリヤねえちゃんのような自転車がないのです。そこで、暴挙にでるロッタ。知り合いのおばさんの自転車を盗んで、乗り回し、ころんで膝を擦りむきます。でも、自分の気持ちをありのままに表すロッタに、おとうさんがちゃんと誕生日プレゼントの新しい自転車をもってきました。

どこの国でも、自分の自転車がほしい!という小さい子どもの願いは一緒ですね。
自我が芽生えて手に負えなく、それでも、かわいい、かわいいロッタです。







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冬には、吹雪の追体験にどうぞ。

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「やぎと少年」(岩波書店/I.Bシンガー作)は、オホーツクの流氷の町でヤギを飼っていた自分のことを思い出させます。わたしが、4人目の出産を控え、大きいお腹で自分ひとりを支えるのもやっとのこと。半年以上の長い灰色の冬の長さは本当にしんどいものです。そのうえ、吹雪の朝も、やぎに干草をやりに、庭にでなくてはならないので、泣きたい気持ちでした。春には子やぎだったときの可愛らしさは一時のこと。あっという間にひげが生え、しわがれ声で鳴くようになっていたのは、その冬のことです。新しい生命を迎える出産を、幼いこどもたちと夫と乗り越え、鍛えられ、楽しさもいっぱいつまった北国の子育ての生活でした。だから、やぎに加えて吹雪のシチュエーションで語るこの物語は、その素朴な生活もろとも、臭いまでが詰まって、手に取るようにわたしに語りかける物語なんです。こんな話です。貧しい家族にとって、少年は、最愛のやぎを市に出すためにやぎを引っ張って家を出ます。が、行く先の突然の吹雪!彼らは、運よく目の前に表れた干草の山の中にもぐりこみます。

少年は、干草の山を見たとたん、「助かった!」と察したあたりが、田舎のこどもならではなんです。真っ暗な干草の中から、ほんの少し窓をくりぬき待機します。やぎは、四方に囲まれた干草を食べ、少年はヤギの乳を飲み、生と死の境にあってまどろみます。それは、弱さの只中にある互いが、温められ干草に抱かれて、至福の世界を体験した三日間でした。やぎは、干草を用意してくれた少年に感謝するように、いななき、少年は、やぎの乳で養われる。二人は、全く愛の関係で結ばれて生かされたのです。1978年ノーベル文学賞を受賞したシンガーは、ヒトラーに一掃されたワルシャワの少年時代の生活を、また、彼らの伝承物語を、ユダヤ人社会の言葉、イディシュ語で蘇えさせました。それは、あの大戦で多く死んでいった同胞を文学の上に生き返らせ、彼らを亡き者のままにさせないためです。「よろこびの日」(岩波少年文庫)も、文学性が高く(!)ユダヤ人の精神生活を知らせる貴重な記録としても面白い本です。「やぎと少年」。この愛の物語を吹雪を追体験しながら、この冬に読んでみませんか?難しいと思われても、年中さんからでも十分、読み聞かせてやるとよく聴けるはずです。

                         

 

 
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金の翼を持っていた Tico

resultCIMG1111.pngみなさん、よかったら、絵本の紹介のページへ遊びに来てください。というのは、このところ、順を追って、レオ・レオーニの作品を紹介しているからです。「あおくんときいろちゃん」にはじまって「スイミー」「フレデリック」。そして、今回の「Tico」で、レオーニを終わりにしようと思います。
実は、「Tico」は、まだ日本で翻訳されていないと思うので、是非この機会にご紹介します。
わたしが、三年前にウイーンに行ったとき、友人がこの絵本を本屋さんで見つけ、はじめてわたしもこの作品に触れました。resultCIMG1114.png
過去の作品でも、表現手法も切り絵や水彩など、多様でしたが、今回の色彩は、とてもシックです。色彩は、色を組み合わせれば、組み合わせるほど難しいのです。色が濁ってしまうからです。色彩豊かで鮮明に、あるいはスイミーに出てくるくらげのような透明感がでてくると素敵ですが、下手な人だと、色がごちゃまぜになって、全体が不調和かにごってしまいがち。でも、シックというのは、深い落ち着きを感じさせる色であり、鈍い色彩、良い具合ににごっている、という感覚だとわたしは思うのです。

さて、お話ですが、一羽だけ羽のない鳥が、羽を欲しがっています。名前は、Tico。すると、彼の願いは聞き届けられ、金の羽が生えてきます。ところが、仲間はこれを喜ばないのです。ここでも、Ticoは、みんなと違って何故いけないの?と嘆きます。Ticoは、病気のこどもの薬を買えないで困っているお父さんに出会い、すっかり同情して、自分の金の羽を抜き取ってあげます。すると、抜き取った部分から不思議と黒の羽が生えてきました。
resultCIMG1116.png貧しいやもめにも、金の羽を抜いてあげました。Ticoは、金の羽という富を自分の満足だけでおわらせず、泣いている人たちと分かち合うことに用いたのです。やがて、Ticoの羽は黒く代わっていきます。すっかり普通の平凡な姿になったTicoを見て、仲間の鳥たちは、やっとTicoを自分たちのグループに受け入れ、Ticoも幸せになるのです。でも、作品の最後には、こうつけ加えられています。「みんなが違っていていいし、みんながそれぞれ見えない金の羽を持ち、それぞれの物語をもっています。」と。


resultCIMG1119.pngレオ・レオーニは、「自分って誰?」というテーマで一貫して作品を生み出してきました。それは、彼がいつも自分自身を、人
とどこか違っている、と感じて生きてきたからでしょう。第二次世界大戦のときは、ユダヤ系であった彼は、イタリアでファシズムと戦い、アメリカに亡命しました。虐殺を逃れた小魚スイミーの姿は、同胞を失って、暗い海底をさまよった作家自身の姿ともいえます。ところが、スイミーでの最後の場面は、政治的英雄になった、とかリーダーになった、とか残念ながら間違えられがちです。そうでなく、スイミーの孤独と深い思索の中から蓄積されたのは、真実を見抜く先駆者としての目、知恵者としての力です。それが、「スイミー」で込められているのです。そして、この「Tico」では、誤解なく、黒い羽の普通の鳥になった主人公を、リーダーとして描くのでもなく、内に秘めた知恵者として静かに表現しています。わたしは、Ticoに出会って、さらにスイミーのことがわかってきたような気がします。
見えない金の羽を持った人や、豊かな物語を仕舞っている人は、私たちのまわりにいるでしょう。単調な生活の中ですが、それぞれが、素敵なTico達に出会えって、勇気をもらえたらと願います。









 
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フレデリック

resultCIMG0446.jpg絵本の紹介では、レオ・レオーニーが続いています。
今回は フレデリック 
詩人のねずみの話です。

他のねずみの友達は、冬に備えて、食料を蓄えて働いています。でも、フレデリックだけは、じっと瞑想に耽るばかり。
「どうして、きみは働かないの?」
と少々、いらいらして聞いてくる友人たち。でも、フレデリックは、「こう見えても働いているよ。」って。ある日は、お日様の光を集めるフレデリック。ある日は、色を集めるフレデリック。又、ある日は、言葉を集めるフレデリック。そして
resultCIMG0448.jpgとうとう、本番の冬がやってきて食料も底をついてくると、みんなの心までが寒々してきます。そこで、フレデリックの出番となるのです。「目をつむってごらん。お日様をあげよう。」友人たちは、いわれるままにすると、金色の光を感じていきます。あれ?これは魔法だろうか?お次は、色彩。冬は灰色なのに、みんなの心にはフレデリックの集めた太陽の下で輝く鮮やかな色彩が思い起こされていくのです。いよいよ、最後は、フレデリックの集めた言葉による、詩が披露されました。
ひもじく、貧しい冬の生活の中でも精神の豊かさが保障されていくのです。友人たちは、フレデリックの詩人である働きに拍手喝采!見えないものを感じ取れる感性の豊かさは、その人の人生を何倍にも豊かにしていくんですね。そして、単調なブルーにもなる日常生活のなかに、些細な喜びを見出せる人は幸せな人でもあります。
余談ですが、みなさんご存知ですか?アウシュビッツの強制収容所で生き延びた人の証言によると、夕焼けの美しさを美しいと感じて、ふと現実の過酷さを離れることのできる精神の持ち主だったり、監視の兵隊が演奏しているバイオリンの音色が、夕暮れの風に乗って聴こえてきた時、聴き入って、疲れきった自分の魂を慰めることのできた人が、同じ条件の中でも生き残っていかれたということ。なによりも、自分には愛する家族が待っている!と希望を失わなかった人が、一日一日を生き延びたことを。(ー夜と霧ーフランクル著 みすず書房 より)

それにしても、このねずみの友人たちも、たいしたものだと思いませんか?フレデリックに誘導されながら、ちゃんと太陽の暖かさを感じ取れたし、色彩を心の目でみることができたのですから。働きながらも、日々の景色を身体でうけとめていたんですね。

こども時代をこどもらしく遊びこんで、ちゃんと生きていることは大切です。早くから、こどもを大人の合理性の生活に押し込めることはありません。いくつになっても、こどもであり、詩人である自分をのこしておきたいものです。感性の豊かさや想像力という、遊びのある自分が、行き詰った自分を助けたり、周囲の人を笑わせ、励ましたりするものです。スイミーに並んで、この作品も、レオ・レオニーらしいと思いませんか?

 
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スイミー☆

resultCIMG0443_2.jpg絵本の紹介 のコーナーでは、このところ、レオ・レオーニーを続けています。この「スイミー」は、みなさんが一番よくご存知かもしれません。レオ・レオーニーの初期に描かれた傑作です。作者の生きた時代は、第二次世界大戦の前後。イタリアでファシズムと戦かったレオ・レオーニーは、家族を連れてアメリカに亡命します。アメリカでも画家として認められ、ニューヨーク近代美術館で個展を開くまでになりますが、1950年から54年にかけての赤狩りで活動できない辛い時期もありました。やがて、デザイン界でも名誉を受け1955年に「あおくんときいろちゃん」を出版します。それから、彼は、絵本作家として世界に知られるようになっていきます。「スイミー」を出版したのは1967年。その後、「フレデリック」というねずみの絵本も発表しました。
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さて、「スイミー」ですが、過酷な時代が描かれています。大きなマグロが小さな魚たちを飲み込み、スイミーだけが生き残るのです。まるで、第二次世界大戦の悲劇をあらわしているようです。そして、わたしたちの世界というのは、いつでも強い権力や勢力に押される弱者が悲鳴をあげています。その中でいきのこったのが、スイミーなのです。スイミーには、使命があります。生き残ったものに与えられている大きな仕事があります。でも、それを自覚するまでには、スイミーはたくさんの旅をしなければなりません。「スイミーは、およいだ くらい うみの そこを。こわかった、さびしかった、とても かなしかった」自分を癒すための旅。自分自身に出会い、本当の自分らしさを発見する旅を泳ぐのです。そのうちスイミーは、美しかったり、面白かったりするものにたくさん出会い元気を取り戻します。この絵本の肝心な場面は、実はこの旅の部分です。水彩の透明度の高い流れるような絵の具の美しさをごらんください。にじいろの ゼリーのような くらげ。スイミーは、弱くちっぽけなだけでなくなり、本物を見分ける(本質)先駆者という目をやしなっていくのです。弱くされたものが、本当の事柄を感じ取れるのです。
resultCIMG0445_1.jpgやがて、自分と同じ小魚が岩の陰にかくれているのに出会います。残念ですが、彼らは、大きな魚がこわくて、世の中に出てこられないのです。わたしたちの日常にも良くある光景ですよね。でも、スイミーは、仲間たちを外の広い世界へと誘い、めげません。昔の逃げ惑っていただけのスイミーではなくなっているのです。スイミーは、共に、本当の平和を築くために、弱い者たちも生き延びていくにはどうしたらいいのかを思索してきたのでしょう。知恵を身につけたスイミーは、赤い小魚の大群の中にまじって、自分は目となり、みんなで大きな魚の格好をして泳ぎ、大きな魚を追い出すことに成功して、話はおわります。
本当のことを見極める 目 というのは、コミュニテイにとって重要なことです。こどもたちは、美しいものや、本当の思いやり、愛に抱きしめられて、知恵者と育っていくことでしょう。それには、弱者の視点からモノをみる姿勢が大切です。そこには本当のやさしさの感性が寄り添っているからです。でも、絵本には、ちっともそんな理屈は描いてありません。作品から、ほんのりとそれが感じられれば充分ですし、そのはず、世界中のこどもたちが、「スイミー」をうけいれてきたのですから。

 
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さかなは さかな

resultCIMG0449.jpgじぶんは、さかな なのに、蛙のまねをした さかな のはなし です。

たしかに、オタマジャクシは、こざかな と一緒に水草の間を泳いで仲良しだったのだから、自分のことを、魚だと思い込むでしょう。そう、はじめのうちはよかったのです。

ところが、時がたつうちに、オタマジャクシの足が生え、蛙になっていくのです。
「みろよ、ぼく かえるに なった!」と自慢する蛙の横で、「ばかな。・・・ゆうべは ぼくみないな こざかなだったのに もう かえるだなんて!」と反応して、ショックをかくせない、魚。二匹は、さんざん言い合った挙句、オタマジャクシの最後の一言。「かえるはかえる、さかなは さかな そういうことさ!」
そして、何週間かたつと、オタマジャクシには、小さな前足が生え、尻尾が小さくなって、本当のかえるになっていきます。つまり、かえるは、水からあがって岸に這い上がっていく日が来たのです。

resultCIMG0450.jpgさて、残された魚は、友達のことばかり考えています。
そのうち、広い世の中を見てきた蛙が、水の中に飛び込んできて、今まで見たこともなかった陸地での生き物のことを話して聞かせます。魚は、自分も、見たことのない世の中に出たくてたまらず、尻尾の一振りで陸地にあがってしまいます。ところが、たいへん!魚の息はあえぎ、彼は、呻きます。そこを、友達の蛙が発見。無事、魚を水中に戻してやりました。

死に物狂いの冒険を犯した魚は、水に入ったとたんに息を吹き返し、自由自在に動ける、本当の自分の居場所を再確認するのです。魚の帰るべき居場所は、水の中であり、その世界の美しいことを、心から知ったのです。そして、魚は、友達の蛙に微笑みかけて、「君のいったとおりだよ。さかなはさかなさ。」と柔和に認める、というおはなし です。
作者のレオ・レオーニーは、絵本のテーマに、自分さがし、自分っていったい何者?ということを問い続けています。わたしたち、みんな、こうやって、自分をたしかめながら生きていますよね。

 
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あおくんときいろちゃん(レオ・レオーニ)

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あおくんときいろちゃん(レオ・レオーニ/ 至光社)

 

新学期がはじまりました。幼稚園や小学校に上がったお友達が、 「ただいまー。」と帰って来る家があることは、本当に嬉しいことです。

自分が、どこの家の子なのか、ちゃんとわかっていることは、その人の心の土台になるからです。そこに、自分を待っているお父さんなり、お母さんなり、自分を愛し世話してくれる人がいたら充分です。レオ・レオーニは、いくつもの絵本の中で、繰り返しくりかえし、自分探しを描いています。自分って誰?どこのこども?って。resultCIMG0143_1.jpg

 

わたしは、うちの育っていったこども達と「あおくんときいろちゃん」を何度も読みました。どこか好きだったんですね。わたしは、このシンプルな本が。「あおくんときいろちゃん」 は、絵の具のあお と きいろのまるの絵で、物語を進めます。この作家は、水彩画の美しさを効果的に、この物語のテーマに沿って表現しています。仲良しの二人は、一緒に交わるとみどり色になることを知り、ますます嬉しくなります。ふたりは、夢中であそんで、みどりに変身したまま、お互いの家にいくのですが、あおちゃんの家でもきいろちゃんの家でも、両親から「うちの子じゃないよ。」と言われてしまうのです。resultCIMG0138_1.jpgショックを受けた二人は、泣いて泣いて、みどり色の身体から、あおときいろの細かい涙をこぼすのです。それで、あおくんときいろちゃんは、又自分の色に戻って、家の両親に迎えられました。実は、二人が交わると黄色になるんだよ、とこどもたちは、お互いにお父さんとお母さんにすばらしいことを教えることができました。不思議な色遊びですね。こうやって、新しい発見をしていくこども達の背後に、しっかりと、帰るべきホームが描かれています。「ただいまー。」と帰ることのできる自分の家に、愛し合う家族が待っているんですよ。こどもにとって、最高の幸せでないですか?

 わたしの友人で、ずーと専業主婦の人がいました。働くお母さんの多い世の中で、自分は家が好きだし、家族も社会にもまれていけるほど強くない。収入が少なくても、自分の家族にとって大事な方を選んで生活した、といいます。ところで、この春、高校の寮に独り立ちしていく息子に言われた言葉は、「おかあさん、いつも家に居てくれてありがとう。」だったとか。古風のようなわたしでも役割があったのかな、と彼女は嬉しくなったそうです。もちろん、共働きであれ、シングルであれresultCIMG0141.jpg、どんな家族の形であっても、こどもを愛し、こどもが安心して帰れるホームを用意してあげたいですね。こどもばかりでなく、みんなにとって、ホームは拠り所です。次回の絵本の紹介も レオ・レオーニ です。お楽しみに。

 
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リーベとおばあちゃん

CIMG0012_1.JPGこの前の日曜日は、イースターでした。
教会や幼稚園の礼拝の後は、みんなで卵探しをしてお祝いしました。
イースターとは、イエス様が、十字架にかけられた後に3日後によみがえったことを、希望の徴として喜ぶ日です。

それで、「リーベとおばあちゃん」(福音館書店)は、そのイースターの朝の出来事を描いています。

おばあちゃんは、病気でした。スエーデンの冬は長く、半年お日様を見られないのです。
特に病気のものにとって、お日様の光がないのは、精神的にも、辛い毎日でしょう。
リーベは、おばあちゃんのために、お日様をとってきてあげようと、決心して、おとうさんとイースターの早朝、ムラサキ山の向こうまで、スキーを車に載せて出かけます。

リーベがお日様の光の代わりにおばあちゃあんにとどけたものは、ふきたんぽぽ でした。冬山の雪の大地の下には、確実に新芽が息づいているのです。福寿草のような、ふきたんぽぽ。春一番を知らせる、金色の花々が、山の斜面一面に咲いている場所に、リーベは足を踏み込んだのです。これは、お日様のこどもだ!とリーベは感じたのです。リーベが、おばあちゃんに、ふきたんぽぽの花束を抱えて、イースターのお祝いをします。静かな愛情豊かなイースターの朝が描かれています。絵も、素敵です。

 
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